月別アーカイブ: 2004年1月

第3回 英語の勉強法 

■最近、電車の中で英語の勉強方法のコマーシャルがたくさん見られます。みなさん、ご存知の通り、英会話学校の広告なのですが、それなりに持論が展開されています。しかし日本人の英語の勉強法ということになると、やはり違うかなという気がしてくるのです。

■日本の学校で英語を勉強したところで、話せないし聞けないという話がよく議論になりますね。本当にそうだろうかと私は実は思っているのです。日本では当然、テレビも日本語、新聞や雑誌も日本語です。日本語で生活ができるし、特に何の不自由も感じません。ところが、そういう環境でなくなると、話は一変します。

■例えば勤めている会社が外資系になって、突然社内の公用語が英語に変わった場合。しかしながら、日本でしか英語を勉強しなかった人々がどんどん話したり聞いたりできるようになっていきます。もちろん、それまでにいろいろと努力があるでしょうが、基本になっているのは、中学や高校でならった文法です。どう表現するか、ある程度のルールがわかっていれば、あとは語彙の問題になりますから、何とか話せるし、やがては聞けるようになると思うのです。

■私は20年間塾で働いてきましたので、子供たちに英語を教える機会はありました。ですから文法や単語の知識は多少あります。しかし、同じように聞いたりしゃべったりすることに関してはあまり、得意ではありませんでした。ところが塾を離れてからしばらく、外資の仕事をすることがあり、何回か英語で商談をしなければならなくなったのです。まあ、大変でした。一人で西海岸に出張しなければならないこともあり、そのときは相棒がいませんから、まさに英語のシャワーを浴びます。するとあるときから、だんだん耳や口が動き始めてくるのです。英語をしゃべらないと生活ができないのですから、必死です。

■しかしながら、その基本はやはり学校や受験勉強で培った文法と単語の知識です。そこから組み立てられてくるわけです。そしてここのところが重要ですが、日本で生きていく限り、英語のシャワーは浴びれないのですから、まずきちんと文法や単語の知識を持つべきではないかと思うのです。

■もちろん語学学校で英語のシャワーを浴びることはできるでしょう。しかしそれが日常にならないので、そう感覚が鋭くはならないのです。それよりも大事なのは文法や単語の知識ではないでしょうか。最近、つくづく思っているのですが、大学の受験勉強で後々、一番役に立ったのは、私は英語だと思います。

(平成16年1月24日)

第19回 単科塾

■最近単科で授業が取れる塾が少なくなりました。単科よりは週3回でセットになっていることが多く、その中の例えば算数だけとるということはできない仕組みになっています。塾側からすると、全部預けてほしい、逆に全部預けてくれないと責任はとれないという論理になっているようです。

■ ところが10年前は単科塾が結構多かったのです。上位校を受けていく層は特に、算数はここ、国語はここ、理科社会はここ、とそれぞれ塾を分けて通っていました。この方式は最近ではあまり流行らなくなってきました。塾が総合化していく戦略だったことに起因すると思われがちですが、実はご父母のニーズがそちらに傾いていったからだと私は思っています。

■当時、学習の主導権は家庭が持っていました。したがって、子供の性格や生活、習い事、あるいは教育方針にしたがっていろいろな選択肢を考えていたのです。ところが、だんだんそれが塾主導に変わっています。でも、この傾向はお父さん、お母さんが自信をもって子供の教育に当たれていない裏返しのような気がしているのです。

■逆に単科塾の変わりに個別指導が対応してくれるようになりました。それぞれの子供のニーズにあわせて授業を設定してくれるのですが、しかし、これも今度はあわせすぎがおきてしまい、受験に間に合わなくなる可能性もでてきます。そういう意味で私は単科塾の組み合わせというのが、家庭が主導権を握る意味ではひとつの選択肢だと思うのです。

■例えば算数と国語は家庭で指導し、理科と社会は単科塾で面倒をみてもらうというスタイルが中学受験にあってもいいのではないかと思うのです。もちろん、親が面倒をみると言う点において当然負担が増えるのですが、子供といっしょに勉強できるのは、多分、中学受験が最後でしょうから、そういう意味で楽しみながら面倒みてあげればよいと私は思うのです。

■ところがそういう視点で塾を探してみると、結構ないことに気がつきます。単科でとれるという塾はあまりありません。しかし、みなさんのニーズがそちらに傾いていけば、塾もまた新しいコースを作っていくでしょう。その意味で、ぜひご両親が自分のニーズをはっきりおっしゃってみるのがよいのではないでしょうか。

(平成16年1月24日)

第2回 捨てられない

■新年早々、引越しをしました。事務局も当然動いたのですが、2つに分かれていたものを1つにまとめたのが大きく、物が多いのです。引越し当初は積み上げられたダンボール箱に埋もれている感じ。1週間たって何とかダンボール箱は消えたものの、なんのことはない、中身がぶちまけられたという感じで、きわめて雑然としています。人に見せられたものではありません。

■要は荷物が多すぎるわけで、やはり捨てなければならない!と思うのですがいかんせん捨てられない。LANケーブルなどは当然あまりますが、いや、また使うかもしれない(どこで?)という気持ちが先にたち、やはりとっておこうとなるわけです。思えば、キャノワード30という今では骨董品になったワープロから始まって、デジタル機器は増えこそすれ、決して減りません。現在はプリンター3台、パソコン4台電話機、ファックス、コピー機、あれよあれよという間に増えてしまいました。(そんなにあったって仕方がないと思うのですが、なぜかみんな使ってるのです。)

■確かに私がいけないところがうーんとあります。パソコンでテレビが見れるという話を聞けば、すぐつないでみる、当然、アンテナ線を分線しなければならず、コネクターだ、ケーブルだとものはどんどん増えていくのです。山根一真氏が以前ぼやいておられたことが、我が家でも現実のものとなってしまいました。

■しかしながら、このことで、インターネットもWebサイトも扱えるようになったわけですから、悪い話ではありません。ただ、問題は捨てられない!という点にあります。前職時代、一生懸命作った教材を考えると、もはや使わないキャノワードのポータブルタイプも捨てるわけにはいきません。さすがに初代のキャノワードはとっとと片付けられていますが、そういうデジタル機器は山のようにあります。

■そこへきて、最近のパソコンの向上は輪をかけて状況を悪化させています。小型化、軽量化されてくると、重たいパソコンを持って歩くことから解放されるかと思い、つい、パンフレットや量販店を見に行きます。「買おうかな」と思うと冷たい視線が帰ってくるので、ここのところは自重していますが、しかし、「原稿書くから」とつい言いそうで、あわてて言葉を飲み込んでいる始末。

■コードがなくなるから「無線LANもいいんじゃない?」誰も答えてはくれません。それでもケーブルは捨てられないとやっぱ思われてるなあ、きっと。

(平成16年1月16日)