それでも母親講座」カテゴリーアーカイブ

第31回 方程式は教えるべきか?

先週、こんな問題を新6年生に教えていました。
「5円切手、10円切手、15円切手をあわせて40枚買って520円払いました。10円切手の枚数は5円切手の枚数の3倍より1枚多いそうです。
15円切手は何枚買いましたか。」

つるかめ算ですが、数学的に言えば3元連立一次方程式になります。
5円切手をx、10円切手をy、15円切手をzとすると
x+y+z=40・・・・・(1)
5x+10y+15z=520・・・・・(2)
y=3x+1・・・・・(3)
数学的に考えるとまず(1)を15倍して(2)を引いてzを消去するので10x+5y=80となりこれに(3)を代入すると10x+5(3x+1)=25x+5=80からx=3となります。

面積図を書いても下記のようになります。
つるかめ算面積図
全部が15円切手とすると15×40=600
斜線部の面積が520ですから白い部分の面積が620-520=80 右端の白い長方形は1×5=5ですから80ー5=75
で横幅が①の長方形をたてに全部つなぐと10+5×3=25になるのでこれが75に等しいから75÷25=3

そう方程式と同じ過程を追っていることがおわかりになると思います。

ではこれは数学なのか?といえば、算数の問題でしょう。算数と数学の考え方の違いは、形にこだわらず自由な発想で解くという点にあるでしょうから、単にこの問題は数学でいえば3元連立方程式であるだけであって、算数の問題であるのです。

でも、こういう問題が出て、方程式ができれば簡単にとけるでしょ、といわれればその通りです。そればかりか、マルイチ算などといわれているものも、ほぼ一次方程式であって、方程式を知っていれば解けるという問題は、実は中学入試では多いでしょう。

で、ここからが問題です。方程式を教えるべきなのかどうか。

私の結論はYESでもありNOでもあります。

方程式で解ける問題は確かに多い、しかし方程式で解けない問題もまた多いのです。方程式が万能だと思われてしまうと、そうではないと反論せざるをえません。方程式では気がつかない論点で解く問題はたくさんあります。だから方程式に頼られてしまうと「算数に必要な自由な発想を妨げる」可能性が高いのです。

方程式の形がマルイチ算と同じならば、方程式ができなくてもマルイチ算ができればいいだけの話。逆に一つの武器として考えるのであれば方程式を教えても何の問題もないでしょう。

「方程式がわかればなんでも解けるから」と教えてしまうのが一番いけないことなのです。

中学受験現場における算数教育で一番間違っていることは、「量をこなす」という発想です。あるいは「すべてのパターン」を網羅するという考え方。毎年各中学校の先生が1年間かけて作る入試問題は、そう簡単ではないでしょう。(もちろん学校によっても異なりますが。)

むしろ、どんな問題が出ても対応していける柔軟性、じっくり考える力をどう養うかということが大事なのです。ですから「方程式は万能」という安易な考え方は絶対に避けないといけない。これで何でも解けると教えられた子がどんなに苦しむことか。

算数は自由な発想力を要求されます。もちろん武器としての解法はたくさんあるにこしたことはない。しかし、発想自体が貧困になってしまうと、今の入試問題を突破することは困難です。

「これはこう考えろ」という一辺倒な教え方や同じつるかめ算を数字を変えて何題も繰り返す練習はあまり意味がないのです。

いかにじっくり考えるか、発想を豊かにするか、ここに算数教育の中心をおいてください。

ちなみに、私は方程式は一切教えていません。

母親講座2DVD母親講座第2回「家庭学習をどう充実させるか」

にほんブログ村 受験ブログ 中学受験へ
にほんブログ村

第30回 最早模擬試験も組み分けも関係なし!

いよいよ東京、神奈川の入試まで10日です。

入試は最早、模擬試験も組み分けテストも関係ありません。その日1日の結果がすべて。その日に出来れば合格し、その日にできれば不合格になるのです。
昨日、いくつかの学校の合格者分布を見返していました。同じ学校でも、偏差値70をとっていても落ちる子がいる、偏差値50台で合格する子もいる、それが中学入試なのです。土台、今までの偏差値やクラスは塾の基準でわけられただけ。入試はその学校独自の基準で見るわけですから、決して同じではありません。

だから、いままであまり成績がよくなかったとしても気にすることはない。その日1日、思い切りがんばってほしいと思います。

第29回 偏差値と順位

    先日、あるお母さんから
    今度入った塾は、席からクラスまで全部テストの成績で決まるんです。これって当たり前なんですか?」
    というお話を聞きました。
    確かに個人情報が露骨にわかりますね。プライバシーがないといえば、本当にそうでしょう。しかし、その方法をとっている塾が案外多いものです。
    ひとつには先生や席についてのクレームをすべて封殺できるからでしょうか。「あの先生だとうちの子の成績は上がりません。」とクレームをつける保護者がいるかどうかは別として、「一つの基準を設け、例外を作らない」とすれば、「いやなら、やめればいい」という結論しかないわけで、それを押し通すことでシステムを完成させているわけです。子どもたちは、親が思うほどではなく、柔軟にそんな状況に対応しているようですが。
    ただ、偏差値とか順位というものに、いったいどれだけの意味があるのでしょうか?
    私が最初にこの仕事を始めた塾は、6年生は全員どこかの学校別特訓に参加していたので、共通して受けるテストというのは外部の模擬試験だけでした。それは麻布特訓の子と開成特訓の子を比べることに意味がない、という考えからです。
    これは成績で志望校を決めないという前提があるからできることです。麻布に行きたいなら、まず挑戦してみる、ここがスタートポイントでなければならないでしょう。その塾は武蔵の合格者が多かったのですが、武蔵には当時、独特の学校別傾向がありましたから、外部の模擬試験の成績が悪くても、塾の武蔵用の試験の成績がよければ合格していましたし、それは他の学校別特訓でも同じことがいえました。
    志望校が違う生徒を同じ基準の上において並べることはあまり意味がないのです。全員の生徒を同一カリキュラムで教えるのであれば理解度を試す試験が必要かもしれませんが、それは達成度を測ればいいので、絶対評価であればよく、(つまりわかっているか、わかっていないかですね)、ことさら順位を示す必要はないでしょう。
    クラス分けテストは合理的に見えて、実は不合理なことが多々あります。多くの場合、4教科の偏差値で分けることになりますが、国語の偏差値と算数の偏差値が同一であるとは限りません。算数はできるが、国語ができないとすれば、偏差値はその間にきますから、どちらの教科も「実力に合わない」クラスに入ることになるのです。
    つまりこの基準はすべて「塾の都合のためにある」といっても過言ではないのです。
    私のかつての塾では学校別特訓のために教員を育て、教材をすべて学校別傾向に合わせて作るということが必要でした。その労力の分だけ、子どもの負担は減ります。これが同一の教材、同一のカリキュラムであれば、そこまで大きな負担はありませんし、そのカリキュラムを教えることができれば教壇に立つことはできます。だから一般化は可能になるでしょう。ただ、その分だけ子どもの負担は増えます。
    残念ながら学校別に特化した塾は今、ほとんどないので、家庭で上手に切り分けていくしかないのです。
    ただ家庭学習中心になれば、塾の仕組みを上手に利用することができます。必要なものだけを受講し、不足するものはまた別の教材で補う、ということをすれば子どもたちがやるべき勉強はもう少し省力化できるのです。ここはぜひお父さん、お母さんにがんばってもらいたいと思います。