大塚久雄さんの共同体の基礎理論は筑駒の中学1年の世界史で読まされました。その後、慶応の経済に進んだとき、同じものをテキストにした授業を受けて、「まあ、なんとも無理なことをしていたものだ」と思ったものです。
しかし、最近「はた」とひざを打ったのです。
今の中高一貫校は大きく分けて2つの流れがあります。
旧制高校の流れを汲む学校は、このように教員が自分の興味にあわせて専門まで一気に勉強させてしまうクラスが出てくるのです。本来、中学校の世界史は通史をやるべきですが、ローマ史を1年間かけてやってしまったりする。中学校の教科書にはそんなレベルの記述はないから、先生が専門書を元に教材をプリントで渡す。この中間、期末は大変です。土台、中学生に専門のローマ史を教える塾や個別指導なんかあるわけはない。だから自分で勉強する技術を持っていないといけないわけです。参考書を探す、難しい文献もがんばって読む、しかしこれはまさに研究のファーストステップみたいなもので、受験勉強なんかさわりもせず、遺伝子だ、生化学だとやってしまう。
もう一方はきちんと受験カリキュラムを作って大学受験に向けて緻密にカリキュラムを組み立てていく。使っているのは塾用教材。あるいは予備校の教材。繰り返し演習をさせ、テストを組み込み、塾や予備校以上のパーフォーマンスを出していきます。学校についていくだけで結構大変だが、その分、塾や予備校に行く必要はない。最近では代ゼミや東進の衛星授業を高校の教室で見せる学校もあります。
当然、幼い子やいまひとつ学力が十分でなかった子どもたちが確実にできるようになるのは後者の方でしょう。最近大学受験の実績を上げている学校は間違いなくこのタイプの学校なのです。
しかしねえ。問題は大学に入った後なのです。
受験勉強というのは、ある意味楽といえば楽なのです。ここまで情報化やデーターベース化が進んでくれば、それに対する対策も比較的確立してくるわけですから、その通りやればまずはそこそこの成績はとれるようになる。
しかし、自分が何を勉強するか、どういうことに進んでいくのか、ましてや研究ということになるとどうなるか?だれも仮説の検証について個別指導してくれるわけではないわけで、自分で考えて方法論を見つけ出さないといけない。
最近理科離れとか研究職離れとかいう話を聞くたびに、パターン化された勉強をさせすぎているのではないかと思うのです。それで確かに大学には入れるだろう、しかし。その後どうしているのだろうか?
敢えて中学1年に「共同体の基礎理論」を配る先生はなかなか素敵なのではないか。少なくともそういう学風というかスクールカラーは大事にしてもらいたいものだなあと思うのですが。